私は常にこのことを念じている。 すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか、と。

 

〈ロータスラウンジ――法華経への旅〉第23回 如来寿量品第十六㊦






  • 無明を叩き破り
  • 久遠元初の大生命の太陽を昇らせるための法華経

法華経について、皆で学び、深めよう――「ロータスラウンジ――法華経への旅」の第23回は、「如来寿量品第十六」㊦です。 
 

■偈文

ここでは、勤行の際に読誦している自我偈の通解を掲載します。

 ◇ 

その時、釈尊は、重ねてこれまで説いてきた意義を述べようとして、次のように偈(詩句形式の文)を説かれた――。

私が仏に成ることを得て以来、これまで経過したところの多くの劫の数は、無量百千万億載阿僧祇である。

(その間)常に法を説き、無数億という数え切れないほど多くの衆生を教化して、仏道に導き入れてきた。そのようにして今に至るまで数限りない劫を経てきているのである。

(仏は)衆生を救おうとする故に、方便を用いて入滅の姿を現ずるのである。
しかし、実は入滅していない。常にここ(娑婆世界)に住して法を説いているのである。

私は常にここにいるが、もろもろの神通力によって、「顚倒の衆生」に対して、近くにいるけれども見えなくしているのである。

人々は、私が入滅したのを見て、広く私の舎利を供養し、皆、ことごとく私を恋い慕う心を懐いて渇仰する心を生ずるのである。

人々はすでに信伏し、心がまっすぐで柔らかく、心の底から仏を見たいと念願し、自らの身命も惜しまないようになる。その時、私は、多くの弟子たちと共に、ここ霊鷲山に出現するのである。

その時(仏を渇仰する滅後の衆生の前に出現した時)に、私は衆生に語るだろう。

「私は常に霊鷲山に存在し続けており、滅することはない。方便の力で、入滅の姿や滅することのない姿を現すのである。他の国土で私を敬い、信ずる者があるなら、私はその中に出現して、その人々のために、このうえなき法を説くのだ。

しかし、あなたたちはこれを聞かず、ただ私が入滅したと思っていた」と。

私は、多くの衆生が苦しみの海に沈んでいるのを見る。それゆえ、姿を現さず、その人々に渇仰の心を生じさせる。

衆生に仏を恋い慕う心が生じることによって、私は姿を現し、法を説くのだ。
(衆生を救うために姿を隠したり、現したりする)私の神通力は、このようなものなのである。

阿僧祇劫という非常に長い間、私は、常にこの霊鷲山にいるのであり、また、折にふれて、その他の場所にもいるのである。

衆生が「世界が滅んで、大火に焼かれる」と見る時も、私の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界・人界の衆生で満ちている。

種々の宝で飾られた豊かな園林には多くの立派な堂閣があり、宝の樹には、たくさんの花が咲き香り、多くの実がなっている。まさに衆生が遊楽する場所なのである。

多くの天人たちが、種々の楽器で、常に妙なる音楽を奏でており、天空からは、めでたい曼陀羅華を降らせ、仏やその他の衆生の頭上に注いでいる。
 私の浄土は壊れることはないのに、衆生は、(世界が劫火に)焼き尽くされ、憂い、恐れなどのもろもろの苦悩が悉く充満していると見るのである。

このもろもろの罪の衆生は、悪業の因縁によって、阿僧祇劫を過ぎても三宝(仏宝・法宝・僧宝)の名を聞くことがない。

多くの、功徳を修め柔和で心がまっすぐな者は、皆、私の身が、ここに存在して法を説いているのを見る。

私は、ある時には、この人々に仏の寿命は無量であると説く。

久しくたってからようやく、仏を見た者には、仏には値い難いと説くのである。

私の智慧の力はこのようなものである。

智慧の光が照らすことは無量であり、その寿命は無数劫である。長い修行の結果として、それを得たのである。

あなた方、智慧ある人々よ。このことを疑ってはいけない。
疑いを永久に断じ尽くさねばならない。
仏の言葉は、真実であり、偽りはない。

譬えば、(良医病子の譬えで述べたように)良医である父が、巧みな方便で、本心を失った子どもたちを救うために、実際は死んでいないのに死んだと言ったのを、だれもうそつきだと言う者がいないように、私もこの世のすべての衆生の父であり、彼らの多くの苦しみや患いを救うのである。

凡夫は心が顚倒しているので、私は実際にはこの世にあるのだが、入滅すると言う。

なぜなら、常に私を見ていると、驕りや、欲しいままの心を生じ、ふしだらで五欲に執着し、悪道に堕ち込んでしまうからである。

私は、常に衆生が仏道修行に励んでいるか、励んでいないかを知って、どう救っていくべきかに従って、さまざまの法を説くのである。

私は常にこのことを念じている。

すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか、と。
 
 

■「始終自身なり」

自我偈は、寿量品の後ろの部分で、それまでの内容を詩句の形式で表現した箇所になります。

「自我」で始まる偈なので、自我偈といいます。
日蓮大聖人は、「自我得仏来」と「自」で始まり、「速成就仏身」と「身」で終わることから、「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり」(御書759ページ)と仰せです。

さらに、「自」と「身」の「中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり」(同ページ)と教えられています。

つまり、自我偈の文は仏の振る舞い、妙法の力を自在に「受け用いる身」のことを説いているのです。

戸田先生が「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」と言われた通り、他の誰でもない自分自身の自在の境涯をたたえる詩句が、自我偈なのです。
 
 

【『法華経の智慧』から】 十界本有の仏

寿量品の仏は「十界本有の仏」(御書1506ページ)なのです。仏界だけではなく、菩薩も声聞・縁覚も、また地獄・餓鬼・畜生の境涯もことごとく、“もともと”具えている仏です。

あるとき突如として仏になったのではないし、仏になったとたんに九界の生命がなくなってしまったのでもない。

しかも、この十界とは、十法界とも言う。法界とは、いわば全宇宙のことです。
十界という全宇宙が本来、大生命体であり、巨大な仏なのです。無始無終で慈悲の活動を続けているのです。

だからこそ、十界のどの衆生であっても、その仏と一体です。一体だと「自覚」すれば仏なのです。一切衆生に、そう「自覚」させるために、仏法は存在する。

ところが人々は、小我に執着して、狭い心のままで苦しんでいる。その無明を叩き破って、久遠元初の大生命の太陽を昇らせるための法華経なのです。(普及版<中>「如来寿量品」)
 
 

【コラム】毎自作是念――全ての人と共に幸せに

日々、読誦している自我偈の最後は、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(法華経493ページ)と記されています。

つまり、この現実世界に常住する仏界の生命は、瞬時も止まることなく、瞬間瞬間、“早く、全ての人と共に幸せになりたい”と願っているのです。

日蓮大聖人は「毎自作是念の悲願」(御書466ページ)、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり」(同758ページ)と仰せです。

池田先生は、「毎自作是念の悲願」について、「この『一念』、この『願い』こそ“永遠の仏”の実体です。

永遠性といっても、この『大願』を離れてはありえない」と語っています。

世界の安穏、友の幸福を願う祈りほど崇高なものはありません。私たちが日々、あの人のために、この人のためにと、友の勝利を願い続ける生命に、仏界が輝いていることは間違いないのです。

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