「自分は慈悲がある」なんて言うのは、たいていは偽善者です。だから慈悲に代わるものは「勇気」です

〈ロータスラウンジ――法華経への旅〉 第30回 嘱累品第二十二



  • 人生100年時代 画像


  • 仏の願い、師匠の願いは
  • ただ「広宣流布」にある。
  • ゆえに弘教に走ることが「報恩」

法華経について、皆で学び、深めよう――「ロータスラウンジ――法華経への旅」の第30回は、「嘱累品第二十二」です。
 
 

■大要

釈尊が、無量の菩薩の頭をなで、“一心に、この経を弘めていきなさい”と語ります。それに応え、菩薩たちが“釈尊の仰せの通りに実践します!”と、誓います。それでは内容を追ってみましょう。 
 

●シーン1
その時、釈尊は、座から立ち上がり、偉大な力を現します。右手で無量の菩薩の頭をなでて語ります。

「私が無量百千万億阿僧祇劫という久遠の昔に修行した、阿耨多羅三藐三菩提(完全な覚り)の法を、今、あなたたちに付嘱する(教えを弘めるように託す)。
この法を、一心に流布して、広く人々に利益を与えていきなさい」
このように3度、菩薩たちの頭をなでて、述べます。

「私が無量百千万億阿僧祇劫という久遠の昔に修行した、阿耨多羅三藐三菩提の法を、今、あなたたちに付嘱する。
この経を受持・読誦し、広くこの法を語って、一切衆生が聞き、知ることができるようにしなさい」

そして、その理由を語ります。
「仏は大慈悲があり、物惜しみすることも、また畏れることもなく、衆生に仏の智慧を与える。仏は一切衆生の大施主である。それに従って仏の法を学び、物惜しみしてはならない。

未来において、法華経を信じる男女が、仏の智慧を信じるならば、その人に仏の智慧を得させるために、法華経を説き、聞き知ることができるようにしなさい。
もし、人々がこの経を信じ受けることをしないならば、仏の深き法の中において、教えを示し、利益を与え、歓喜させるべきである。
このようにするならば、諸仏の恩を報ずることになる」
 
●シーン2
菩薩たちは皆、釈尊の説法を聞き終わって、大歓喜します。
ますます仏を敬うようになり、体を曲げて頭を下げ、手を合わせて、共に語ります。
「釈尊の仰せの通りに実践します。仰せのままにします。
釈尊よ、どうか心を煩わされませんように」
菩薩たちは、このように3度、共に声を上げます。
「釈尊の仰せの通りに実践します。仰せのままにします。
釈尊よ、どうか心を煩わされませんように」
 
●シーン3
その時、釈尊は、十方より集まってきた分身の仏たちを、それぞれの本土に帰し、宝塔を元通りにするように語ります。
最後に、十方の無量の分身の仏や、多宝仏と上行菩薩をはじめとする無量の菩薩たち、舎利弗などの声聞、四衆、一切世間の天界・人界・修羅界の人々など、生きとし生けるものが、仏の説法を聞いて大歓喜します。 
 

■総付嘱

「嘱累品」での付嘱は、釈尊に教化された本化(地涌)と、迹仏に教化された迹化の両方を含めた無量の菩薩に付嘱されたので、総付嘱といいます。

日蓮大聖人は、付嘱の光景を次のように記されています。
「嘱累品の心は、釈尊が虚空に立たれて、四百万億那由他の世界一面に、武蔵野の芒のように、富士山の木のように群がり、膝を詰め寄せ、頭を地につけ、身をかがめて、手を合わせ、汗を流して、釈尊の前に露のようにおびただしく集まった上行菩薩等や文殊等、大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に法華経を譲るため、3度も頂をなでられたことにある。たとえば、悲母が子どもの髪をなでるようなものである。その時に、上行や日月天等は、かたじけない仰せを受けて、法華経を滅後末代に弘通することを誓われたのである」(御書1245ページ、通解)
菩薩の頭を3回なでられたことについては、「御義口伝」に「三摩の付嘱とは身口意三業三諦三観と付嘱し給う事なり」(同772ページ)と記されています。

池田先生は、次のように教えられています。
「弟子の立場から言えば、師の教えを『身』で行じ、『口』で行じ、『意』で行じて、一心三観の智慧を得ていく。すなわち自分の仏界を無量に開いていく――そういう意味になるでしょう」

「『弘教』です。広宣流布に動いていくことです。広宣流布に連なった『身』『口』『意』の三業は、塵も残さず、全部、大功徳に変わる」
付嘱といっても、託される側が、広布の戦いを起こしてこそ、法を受け継ぐことができるのです。 
 

■嘱累

品の題名である「嘱累」の「嘱」には「たのむ」「まかせる」「たくす」など、「累」には「かさなる」の他に「つなぐ」「わずらわす」という意味があります。つまり「嘱累」には、“大変だが、弘通を頼む”という意味合いがあるのです。
また、嘱累品は、弟子の末法弘通の誓いで終わっています。

池田先生は「弟子の側から言えば、『私が全部、苦労を担っていきます』というのが『嘱累』です。それで師弟相対になる。師弟というのは、厳粛なものです。師の一言でも、どれだけ真剣に受けとめているか。『すべて実行しよう』と受けとめるのが弟子です」と。
「嘱累品」は、師から弟子へ法を託し、弟子が師に誓いを立てる――歓喜に彩られた“師弟の品”とも言えるのです。
 
 

【『法華経の智慧』から】 弟子の自覚を

慈悲と言っても、凡夫には慈悲なんか、なかなか出るものではない。「自分は慈悲がある」なんて言うのは、たいていは偽善者です。だから慈悲に代わるものは「勇気」です。「勇気」をもって、正しいものは正しいと語っていくことが「慈悲」に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です。

 ◇ 

嘱累品に、弘教の人は「諸仏の恩を報ず」(法華経579ページ)とある。仏の願い、師匠の願いは、ただ「広宣流布」にある。ゆえに弘教に走ることが、それこそが師匠への「報恩」になるのです。恩を忘れて仏法はない。否、人道はない。仏法は「人間の生き方」を教えたものです。ゆえに、仏法者は、だれよりも「知恩の人」「報恩の人」でなければならない。

 ◇ 

たとえ師匠から離れた地にいようとも、直接話したことがなくても、自分が弟子の「自覚」をもって、「師匠の言う通りに実行するのだ」と戦っていれば、それが師弟相対です。根幹は、師匠対自分です。
(普及版〈下〉「嘱累品」)
 
 

【コラム】 二処三会

「嘱累品」で、「宝塔品」から始まった虚空会の儀式が、終わります。この後、法華経の説法の舞台は、再び霊鷲山へと移ります。
このように説法の場所が、霊鷲山から虚空会、虚空会から霊鷲山へと、二つの場所で三つの会座があることを「
二処三会」といいます。

池田先生は、「『二処三会』には、深い意義があった。それは法華経全体の構成によって、『現実の世界から〈永遠の生命の世界〉へ』(霊鷲山から虚空会へ)、そしてまた『現実の世界へ』(虚空会から霊鷲山へ)という“人間革命のリズム”を示している」

私たちにとっては、現実社会で広宣流布の苦悩を誓願の祈りに変え、生命力を満々とたたえ、再び民衆救済、立正安国へと挑んでいく。
この往復作業こそが変革への確かな道であり、その実践の中に、自身の成長と人生の充実もあるのです。

2021年10月17日

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