「法性の大地」すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです。ドラマを演じていると思えば楽しいでしょう。生と死が苦しみでなく、楽しみになる
〈ロータスラウンジ――法華経への旅〉第22回 如来寿量品第十六㊥
- 妙法に根ざした生と死は
- 永遠常住の大生命を舞台とした歓喜のドラマ
法華経について、皆で学び、深めよう――「ロータスラウンジ――法華経への旅」の第22回は、「如来寿量品第十六」㊥です(前回は12月29日付。原則、月1回掲載)。
「私が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祇劫という長遠な時間であり、この世界に常住して滅することがない」
「私が菩薩の道を行じて成就した寿命は、今なお尽きていない。にもかかわらず今、真実の滅度ではないが、まさに、“仏は入滅するだろう”と言うのである」
その理由について語ります。
「如来は、この方便をもって衆生を教え導くのである。その理由は何であろうか。
もし仏が久しく世の中に住するならば、徳の薄い人は、善根を植えようとしないだろう。また、貧しく賤しい生活に落ち込み、欲望に執着し、間違った思想の網の中に入ってしまうだろう。
もし如来が、常にこの世にあって入滅しないと見れば、すぐに驕りや、怠る心などを抱いて、仏に対して“なかなか会えない”と慕う思いや、敬う心を生ずることができないだろう。だから如来は、方便として『諸仏の出現に会うことは、難しい』と説くのである。
それは、福徳の薄い多くの人は、無量百千万億劫という長い期間を過ぎても、仏を見る人も、仏を見ない人もいるからである。ゆえに私は言う。『仏に会うことは難しい』と。
衆生たちは、このような言葉を聞いて必ず、“仏には会い難い”という思いを生じ、心に恋慕を抱き、仏を渇仰して、善根を植えるようになるであろう。
この故に如来は、実際は滅しないが、滅するというのである」
「あらゆる仏は、皆、このように(方便をもって)法を説くのである。これは、衆生を正しく教え導くためであるから、皆、真実であり、ウソではない」
◇
ここから有名な「良医病子の譬え」が始まります。
――譬えば、智慧が聡明で、病気の診断と薬の処方に熟練し、多くの病気を治すことができる名医がいたとします。その人には、十人、二十人、ないしは百人のたくさんの子どもがいました。
良医は所用で、遠く他国に出掛けていました。その間に、子どもたちは、他の人の作った毒薬を飲んでしまい、毒が回って、悶え苦しみ、大地を転げ回っています。そこに、父が戻って来ました。
子どもたちは父を見て、大歓喜し、合掌し、ひざまずいてお願いします。
「私たちは愚かなことに、誤って毒薬を飲んでしまったのです。どうか救って、寿命を与えてください」
父は、子どもたちが苦しんでいる姿を見て、良き薬草を求め、つき、ふるい、調合し、飲ませようとします。
父は子どもたちに語ります。
「この大良薬は、色と香りと良きき味の全てを具えているから、この薬を飲みなさい。そうすれば、すぐに苦悩が除かれ、かずかずの病気にわずらわされることはなくなる」
正気を失っていない子どもは、薬の色や香りが良いのが分かって、すぐにこれを飲んで、苦しみが除かれます。
ところが、正気を失った子どもたちは決して薬を飲もうとしません。
そこで父は考えます。
“かわいそうだ。毒で心が顚倒している。私が帰ってきたのを見て喜び、治療を願っているのに、この良薬をどうしても飲もうとしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませよう”
父は言います。
「いいか、私は、老いてしまって死期が迫っている。この素晴らしい良薬を置いていくから、飲みなさい。苦痛が癒えないことを心配しなくていいよ」。こう言い残して、他国に行きます。
そして、家に使いを出して語らせます。「あなた方のお父さんは、すでに亡くなりました」
この時、子どもたちは思います。
“もし父がいたら、私たちを慈しみ、あわれんで、救ってくれただろう。今、父は遠い他国で亡くなった。私たちには、頼れるものがなくなってしまった”
子どもたちは嘆き悲しみ、ついに心が目覚めます。そして、父が置いていった薬は、色も香りも味わいも良いことが分かり、すぐに飲み、毒の病が全て治ります。
父は、子どもたちが治ったと聞いて家に帰り、皆の前に姿を現しました――。
◇
釈尊は語ります。
「良医にウソをついた罪があると説く人がいるだろうか」
菩薩たちが答えます。
「いるはずがありません」
そこで釈尊は言います。
「私も(この譬え話と)同じである。
私は成仏してからすでに無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫もたっている。
しかし、衆生のためを思い、方便の力によって、まさに入滅するであろうと説くのである。
したがって、私がウソをついたと言って、型どおりに、その罪を言う者はいないであろう」
(㊦に続く)
寿量品で説かれる久遠実成によって明かされた成仏の因果を、本因本果と言います。 寿量品に「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」(法華経482ページ)と記されている通り、久遠に菩薩道を行じてきたことが成仏の本因であり、その菩薩の生命は成仏してからも尽きることなく具わり、常住であると教えています。
さらに「我は成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」(同ページ)と、本果である仏界の生命も常住であると説きます。
このことによって「九界即仏界」「仏界即九界」が明かされたので、大聖人は「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書197ページ)と仰せられました。
本因本果が明かされることによって、一切衆生が凡夫のままで一生成仏を実現する道が開かれたのです。
“生と死はない”というのは、生命の常住の側面を強調しているわけです。
その面だけにとらわれると、ある意味で抽象論になってしまう。
“生と死がある”のは人生の現実だからです。その現実から逃避しては観念論になる。
大聖人は、もう一歩深く、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(御書724ページ)と仰せです。
妙法に根ざした生と死は、「法性の大地」すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです。ドラマを演じていると思えば楽しいでしょう。生と死が苦しみでなく、楽しみになる。「生も歓喜」「死も歓喜」となっていくのです。
妙法は、生死の苦しみを乗り越える大良薬です。寿量品に「是好良薬(是の好き良薬)」(法華経487ページ)とあります。
法のため、友のために――くる日もくる日も、心を使い、体を使いきっている学会の同志は、永遠にわたる「生命の凱歌」の軌道を歩んでいるのです。(普及版<中>「如来寿量品」)
「良医病子の譬え」で、毒を飲んで苦しんでいる子どもたちの中に、なぜか良薬を飲もうとしない子がいました。
その時、父親の良医は、力ずくで薬を飲ませることはしませんでした。その代わりに、どうすれば子どもたちが良薬を飲もうとする心が起こせるかと、智慧を湧かせたのです。
教え導くことは、どこまでも相手の求道心を呼び覚ますことが大切であることを教えていると言えるでしょう。
どんなに素晴らしい良薬、私たちでいえば仏法であっても、それを無理強いすることではなく、“やってみよう”“信じよう”という自発を促していくことです。
どんなにそれが困難に思えたとしても、良医が智慧を尽くしたように、相手の成長と幸福を心から願う時、計り知れない仏の智慧を発揮していくことができるのです。この慈悲の振る舞いこそ、仏の振る舞いなのです。
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