【大阪市立大空小学校】「見えない学力」と呼ぶ ①人を大切にする力 ②自分の考えを持つ力 ③自分を表現する力 ④チャレンジする力

 

〈危機の時代を生きる〉 東京大学大学院バリアフリー教育開発研究センター長 小国喜弘教授㊤



  • インクルーシブな教育と社会へ
  • 真の「共生」の在り方を目指して

「インクルーシブ(包摂的)」な教育や社会という言葉を聞いて、どんな光景を思い浮かべるだろう。障がい等の困難のある人もない人も、共に学び、生きていく社会の在り方とは。東京大学大学院教育学研究科教授で、同大学院バリアフリー教育開発研究センター長を務める小国喜弘さんに話を聞いた。上下2回にわたり掲載する。(聞き手=大宮将之、村上進)


配慮ではなく排除

――小国教授はかねて、国際的に広まっている「インクルーシブ」な教育や社会という理念と、日本における特別支援教育等の現実との間に、ギャップ(隔たり)があるのではないかと指摘しています。
  
読者の皆さまの年代等によって千差万別だとは思いますが、幼稚園や保育園時代、または小・中学校時代に、心身に障がいのある子や発達に障がいがあるとされる子たちと「共に学んだ」という記憶や実感はありますか。30代以上の方々であれば「学校の中に『特殊学級』という別の教室があって、そこで障がいのある子たちが学んでいたのは知っている」という人も、多いかもしれません。
  
日本の特別支援教育は、かつて「特殊教育」と呼ばれていました。その子にどんな障がいがあるかによって、「盲・ろう・養護学校」や「特殊学級」など“別の学ぶ場所”に振り分けられていたのです。それが現在の「特別支援教育」になったのは2007年からです。
  
その背景には、1990年代から国際社会でインクルーシブ教育が叫ばれるようになり、「特別な教育的ニーズ(必要性)を持つ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず」(サラマンカ宣言)との理念が広がったことがあります。
  
また、2006年に国連総会で採択された「障害者権利条約」には、「障害者が障害に基づいて一般的な教育制度から排除されないこと及び障害のある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと」とうたわれました。日本は2014年に批准しています。
  
日本における特別支援教育制度も、前提として、あらゆる子どもたちについて「同じ場で共に学ぶことを追求する」(文部科学省「特別支援教育の在り方に関する特別委員会報告」)ことを掲げています。
  
それとともに、個別の教育的ニーズのある子どもに対しては、そのニーズに最も的確に応える指導を提供するためという理由から、「小・中学校における通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』を用意しておくことが必要」(同)とも示しているのです。
  
同じ教室で一緒に学ぶことがもちろん望ましいけれども、それだけだと、障がいのある子が勉強についていけなかったり、自立に向けた支援もじっくり受けられなかったりするから、別の学びの場所も用意しておきましょう――これは一見すると合理的な“配慮”であり、ある面では必要な部分もあると言えます。
  
しかし私は、インクルーシブ教育の本質的な理念から問い直し続けることなしに、特別支援教育の現状に頼り切ってしまうと、結果として、合理的な“配慮”ではなく“排除”につながってしまうのではないかと危惧しています。



ニューヨークの国連本部で開かれた障害者権利条約の締約国会議(2015年6月、共同)


ストレスがかかる

――“配慮”のつもりが“排除”に……背景には、何があるのでしょうか?
  
要因の一つとして、現在の「全国学力・学習状況調査」の影響が無縁ではないと見ています。全国の小学6年生と中学3年生を対象に毎年行われている学力テストです(昨年はコロナ禍のため中止)。実はこの調査がスタートしたのは、特別支援教育と同じ2007年でした。
  
全国学力テストの狙いは本来、学力状況の調査を通じて課題の検証や改善サイクルの確立を図ることだったのですが……今、その実態は「調査」というよりも「評価」になっている傾向があると言えるでしょう。実際に、点数の結果に基づき、マスメディアを通じて「都道府県別のランキング」を明らかにされることが常態化しています。地域によっては保護者が学力調査の結果をもとに、わが子を通わせたい学校を選択するという状況も起きていて、学校の先生方は有形無形のプレッシャーにさらされているのです。
  
すると、どういうことが起きるのか。子どもたち一人一人にとっての「学び」は自然と、国語や算数といった教科の点数向上に重きが置かれがちになります。クラス全体の平均点も上げなければならない。となると、教師から見て望ましい授業とは、子どもたちみんなが静かに話を聞いてくれて、全体としての秩序が維持された状態で、効率的にスムーズに行われる――ということになるわけです。
  
「学習スタンダード」という言葉をご存じでしょうか。簡単に言うと、「授業は、このような態度で臨みましょう」という学校やクラスごとの“決まり”“お約束”のようなものです。特に小学校に多いですね。
  
「椅子に座る時は背筋をピンと伸ばし、足は床にぺったり付けて」「先生の話を聞く時は手を膝の上に」「発言する時は手を真っすぐ挙げる」「名前を呼ばれたら『はい!』と返事をしましょう」――もちろん、これが無理なくできる子もいます。
  
一方で、想像してみてください。例えば、親が経済的に困窮していたり、家庭不和があったりして日常的に不安や緊張を抱えているような子、また親から虐待等を受けているために、家庭が“安心の居場所”にはなっていない子どもにとって、学校でもさらにストレスがかかる規律や規範を求められ続けたら、どう感じるでしょうか。ストレスをコントロールしきれず、授業中に立ち歩いたり、騒いだりしてしまう子がいるのも、無理からぬことだと言えます。
  
しかし、そうした行動は一時的だったとしても、多くの学校では“望ましくない行動”と見られがちで、簡単に「発達障がい」と括られてしまうケースも少なくありません。医師の診察を受けて、例えば「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」等の診断名が付けられると、「普通学級での学習は難しい」と判断されてしまうこともある……。
  
実は日本のこうした状況に対し、国連の「子どもの権利委員会」は2019年に勧告を出しています。障がいを医学的な観点ばかりから捉えていて、社会的な要因によって引き起こされているという視点から捉えて対処することを、疎かにしている――と。
  

社会モデルの視点

――障がいの捉え方には大きく「医学モデル」「社会モデル」の二つがあると言われています。
  
「医学モデル」は「個人モデル」とも呼ばれます。障がい者が生活上でさまざまな困難に直面するのは、「その個人に障がいがあるから」だと捉え、克服するのはその個人や家族の責任だとする考え方です。実際に私が各地の特別支援学校を参観して感じるのは、機能訓練のようなものが重視され過ぎていて、「障がい」とされている部分をどう克服するかに、多くの時間とカリキュラムが充てられている点です。
  
一方の「社会モデル」とは何か。障がい者が直面する制約や困難とは、社会の環境や制度、ルールなどが障がいのない人(多数派)の都合に合わせてつくられていることによって生じているものであり、その障壁を取り除くのは多数派側の社会の責任であるとする考え方です。少数派の人々を含む誰もが暮らしやすい共生社会をつくる第一歩が、この「社会モデル」にあると言えるでしょう。
  
実はこの「社会モデル」の視点に立つと、社会の障壁を感じているのは、「障がい者」と呼ばれる人だけではないという事実にも気付くことができます。貧困家庭やニューカマー(新規入国した外国人)、ひとり親家庭や特定の宗教・文化的慣習を持つ人など多様な差異が人々の間にあって、それぞれの立場で感じている“障壁”があるのです。
  
全ての子どもが共に学べるインクルーシブな教育を実現しようと考えるなら、子どもにとって必要ないルールは極力なくしていくという発想が必要でしょう。多様な子どもたちが伸び伸びと学べる環境をどう保障するのか。一律的な学習スタンダードを見直すぐらいの覚悟がなければ、真にインクルーシブな学校はつくれないと私は考えます。


小国喜弘さんと木村泰子さんの共著『「みんなの学校」をつくるために――特別支援教育を問い直す』

みんなで一緒に

――そうした取り組みを先進的に行ってきた公立小学校として知られるのが、映画「みんなの学校」の舞台にもなった大阪市立大空小学校ですね。
  
私がセンター長を務める東京大学大学院バリアフリー教育開発研究センターと大空小学校は、2017年に研究教育交流協定を締結しています。私自身、研修講師や学校協議会委員として関わってきました。

初代校長を務めた木村泰子先生は、退職後もその教育理念を広げる活動をされています。
  
木村先生へのインタビューが掲載された聖教新聞の紙面を、私も拝見しました(本年2月20日付)。記事の中でも紹介されていましたが、大空小学校の理念は「すべての子どもの学習権を保障する」。特別支援の対象となる子どもも含めて全ての子どもたちが同じ教室で学びます。校則は一切なし。あるのは“たったひとつの約束”である「自分がされていやなことは人にしない、いわない」のみ。校則ではなく約束なので、破っても罰せられるのではなく、“やり直し”をすればいいわけです。  

木村先生が教職員と語り合う中で考えた「身に付けるべき学力」とは、いわゆるテストの点数として表れる「見える学力」ではありませんでした。「見えない学力」と呼ぶ①人を大切にする力②自分の考えを持つ力③自分を表現する力④チャレンジする力――という四つの学力を重視したのです。  

さらに「学校は地域のもの」という考えがあって、授業は常に外部にも開かれている。保護者や地域の人も自由に参加して、しんどい子に寄り添っているんですね。授業についていけなかったり、気持ちが不安定だったりする子がいたら、その子を“困った子”として見るのではなく“困っている子”と見て、「どうしたら、ええんかなあ」と全ての教職員、さらには地域の人や周りにいる子どもたちと一緒に考える。障がいのある子がいても、その子にそれをどう克服させるかと考えるのではなく、それぞれの独自性を認めた上で長所を伸ばしていけるにはどうすればいいかを、一緒に考えていくんです。
  
そもそも、たとえ障がいがなくても、学ぶことに対して“しんどさ”を覚える子は常に現れるわけです。大空小は、その時その時で最もしんどい子を見つけては、その子が学びやすくなる環境を、周囲が変わることでつくっていこうとするんですね。子どもたち同士が変わるだけではなく、教職員も保護者も地域も変わっていこうとするのです。まさに「社会モデル的な包摂」と言えるでしょう。
  
もちろんトラブルは毎日のように起きます。私も授業を見学したことがありますが、決してきれい事ではありませんでした。それでも壁にぶつかるたびに、大人も子どもも“やり直し”て、どうすればいいかを考えていくんです。すると子どもたちの「見えない学力」がグングンと伸びていく。さらには「すべての子どもの学習権」が保障されている心理的安全性の中で、子どもたちも安心して学びを深められるから、結果的に「見える学力」もちゃんとついてくるわけです。
   
インクルーシブな教育とは、文部科学省や教育現場だけに任せておけばできるというものでは、決してありません。家庭や地域や社会で私たち大人が主体者となり、子どもたちと一緒にインクルーシブな理念と実践を広げていってこそ実現できるものでしょう。
  
また、インクルーシブな教育や社会といっても、一つの理想の形やゴールが決まっているものではありません。「どうしたら共に学び、共に生きていけるか」との問いを絶えず繰り返しながら進む、その“現在進行形の過程”の中に、真のインクルーシブも存在するのではないでしょうか。




 
こくに・よしひろ 1966年兵庫県生まれ。早稲田大学教授などを経て、東京大学大学院教育学研究科教授。同大学大学院バリアフリー教育開発研究センター長。専門は教育史。著書に『戦後教育のなかの〈国民〉――乱反射するナショナリズム』『障害児の共生教育運動――養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(編著)、『「みんなの学校」をつくるために――特別支援教育を問い直す』(共著)などがある。

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