池田会長は、泥の池に生じながらも美しい花をつける蓮華の例えを用いて言われました。世俗を超越した価値観をもちながらも、世俗の中で生きる。

 

〈創価学会創立の月 記念インタビュー〉 米デンバー大学教授 ベッド・ナンダ博士 「行動する仏教」が社会にもたらす価値




「青年・飛躍の年」である明年へ――創価学会は、創立91周年の「11・18」から新たな船出を開始した。創立の月記念インタビューの第3回では、日蓮仏法の現代的意義や民衆宗教として飛躍する学会への期待などについて、米デンバー大学教授(元副学長)のベッド・ナンダ博士に聞いた。(聞き手=萩本秀樹)



    社会変革への熱意

    ――創価学会は今月18日に創立91周年の佳節を刻みました。池田大作先生と対談集を刊行され、さらに世界各地のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーと出会いを重ねてこられたナンダ博士に、これまでの交流を振り返っていただければと思います。
      
    創立91周年の佳節を祝福申し上げるとともに、創価学会が果たしてきた功績に深く感謝いたします。

    私はアメリカをはじめ、インドやカナダ、その他の国々でSGIメンバーと交流してきました。多くのメンバーの、信仰によって人生を開いていく様子を目の当たりにしてきました。

    人々の人生にも、そして社会にも、SGIは、どれほど大きな価値をもたらしてきたことかと感銘を深くしています。
     
    池田SGI会長とお会いし、対談できたことを私は光栄に思います。デンバーの私の自宅にも来ていただきました。会長はピアノを弾き、私の娘を喜ばせてくださいました。とても素晴らしい時間でした。

    池田会長はオープンで、フレンドリーで、温かな人柄の方です。中でも私が感銘を受けるのは、社会変革への強い熱願です。より良い社会を築くために、会長は、平和とともに文化の発展にも重きを置かれています。会長の著作や写真は素晴らしく、その文化的功績は比類なきものです。
     
    また私は、池田会長の社会変革への熱意が、会長を人生の師と仰ぐSGIのメンバーに継承されていることを実感しています。会長ご自身がメンバー一人一人に対してそうであったように、彼らもまた、互いに励まし、自らができる社会での挑戦を起こしているのです。そうした姿を見ることは大きな喜びです。
     
    というのも、ヒンズー教の聖人は長い間、ヒマラヤに座して瞑想にふけり、悟りに至るものの、積極的に社会に関わろうとしなかった歴史があるからです。

    ヒンズー教において社会に関わることが重要視されるようになったのは、19世紀後半に出家したスワミ・ヴィヴェーカーナンダの影響がありました。米シカゴでの世界宗教会議にも参加した彼は、社会奉仕こそ宗教の目的であると説いて回りました。

    彼の功績を思うたびに、私は、SGIに思いをはせます。SGIもまた、「行動する仏教」を体現しているからです。



    1996年6月、アメリカ・デンバー大学から池田先生に「名誉教育学博士号」が授与された。式典前日にナンダ博士の自宅を訪れた先生が、キャサリーン夫人(右手前)や令嬢のアンジェリーさんと和やかに(デンバーで)


    全人類は一つの家族

    ――池田先生との対談集『インドの精神』では、仏教とヒンズー教の社会的意義を巡り、語り合われています。二つの宗教は現代においてどのような意義をもつとお考えですか。
      
    生態系の危機、頻発する紛争、核兵器を巡る問題、そして気候変動――現代社会は深刻な課題に直面しています。寛容と尊厳と調和を重んじる仏教は、この危機の時代に希望の光をともす存在です。

    その例として、池田会長は、毎年の「SGIの日」記念提言で、これらの諸課題への具体的な解決策を発表してこられました。私も心して拝見しています。

    核兵器の問題であれ、気候変動であれ、会長の提言内容は、常に時代を先取りしてきました。さらにSGIの皆さんは、会長が発表される構想を展示や講演、会議といった形で実践し、世界の動きを活性化させてきました。
     
    もちろん、ヒンズー教も社会に大きな影響を及ぼしてきました。特に近年、ヒンズー教は自らの慣習にとらわれるのではなく、世界を家族と見る傾向を強めています。「ヴァスダイヴァ・クトゥンバカム(全人類は一つの家族)」。これがヒンズー教の教えです。
     
    仏教も、ヒンズー教も、他者に寛容であれと説きます。しかし寛容であるだけでは、“差異を認める”ことにとどまり、十分ではありません。二つの宗教は、差異を認めるだけでなく、受け入れ、尊重することを教えます。そしてさらに、差異を祝福するよう促すのです。紛争やテロリズムのような残忍な行為が後を絶たない世界にあって、真に必要とされるのはこうした姿勢なのです。
     
    私たちが語り合ったように、仏教もヒンズー教も、「自己中心主義」から解放され、他を差別し排除しようとする自分自身の偏狭な心と戦うよう、戒めます。今日の問題を解決する鍵もこうした自己との闘争にあるのです。


    「慈悲」の精神

    ――仏教の精神的遺産として、「慈悲」に注目されています。
      
    「行動する仏教」であるSGIの皆さんは、思索にふけるだけでなく社会に尽くすことが、仏教者としての重要な生き方であることを教えてくれています。皆さんの一つ一つの行動が、仏教の「慈悲」を体現していると思うのです。
     
    池田会長と語り合った点でもありますが、ヒンズー教では、慈悲とは「あらゆる被造物は一つに結ばれている」との信条に基づいています。また、仏教でも、慈悲の実践は「縁起」の法に基づきます。どちらも、生きとし生けるものは互いに連関していると見るのです。

    ゆえに、慈悲の行為とは立場が上の人から下の人への施しではなく、自分も他者も分かちがたくつながっていることを、深く自覚するがゆえの実践であるといえます。
     
    全ての人には平等に尊厳性が具わっており、それをヒンズー教では「神性」、仏教では「仏性」と呼びます。この精神に照らせば、人を傷つける行為は断じて受け入れられません。にもかかわらず、歴史上、宗教の名の下に暴力が繰り返されてきたのは事実です。

    多くの場合、そうした暴力は狂信という形を取り、こう主張するのです。“この道のみが真理への唯一の道である。続かなければ救われず、神から罰せられるであろう”と。
     
    反対に、仏教もヒンズー教も真理に至る道は多様であると説きます。目指す到達点は「涅槃(成仏)」、あるいは「究極の真理」というように呼び方こそ異なりますが、その道は多様であり、全ての人に幸福になる可能性が具わっているという意味で、真意は何ら変わらないのです。
     
    インドで「ナマステ」とあいさつする際、私たちは自分の胸に手を置き、相手を見て、お辞儀をします。「ナマステ」という言葉自体に、“私の中の神性が、あなたの中の神性にお辞儀をする”という意味があります。相手を深く尊敬するのが、ヒンズー教と仏教にも共通する姿勢です。



    池田先生とナンダ博士の対談集『インドの精神』㊨と英語版
    朝晩の祈りが「世界市民」への一歩

    ――大乗仏教は涅槃の境地にとどまるのではなく、悟りの座を立ち、あえて現実の苦悩の中で生きることを掲げます。そして、その模範を菩薩の生き方に見いだします。
      
    そのことを池田会長は、泥の池に生じながらも美しい花をつける蓮華の例えを用いて教えてくださいました。世俗を超越した価値観をもちながらも、世俗の中で生きる――これこそが見習うべき生き方の規範であり、会長やSGIの皆さんが体現している生き方であると実感します。
     
    対談の中で、私は池田会長に質問しました。会長の行動はどのような思想に基づくものでしょうか、と。会長は3点挙げられました。一つは仏教思想であり、もう一つは牧口初代会長の「人道的競争」のビジョンであり、そして三つ目が、戸田第2代会長の「地球民族主義」の思想です。

    「人道的競争」「地球民族主義」に共通する、世界の相互連関性を見つめた上で、足元から行動を起こす姿勢――これは、対談した当時以上に今日において、重要な意義をもちます。
     
    池田会長は、世界を舞台として、知識人や政治家、オピニオンリーダーらと対話してこられました。私自身、牧口会長と戸田会長が池田会長にとってどれほど大きな存在であるかを、対談を通して実感した一人です。池田会長は、二人の師匠の構想のままに生きてこられ、そして今、世界中のSGIメンバーが、会長が開いた道に続いています。
     
    「創価学会永遠の五指針」がありますね。「一家和楽の信心」「幸福をつかむ信心」「難を乗り越える信心」「健康長寿の信心」「絶対勝利の信心」――本当に素晴らしい五指針だと思います。自分のためと思える皆さんの祈りや実践が、実は、身近なところで平和と幸福を築いているのです。そして、身近に築かれた平和と幸福の連帯は、大きく広がっていきます。

    日々、朝晩と祈る時――「世界市民」となる第一歩が、そこから始まっているといえるでしょう。
     
    大きな変化も、小さな一歩から始まります。このことを、私と池田会長は、仏教の「中道」にも通ずる漸進的な姿勢を巡り、確認し合いました。漸進性とは、現実を真正面から見据えながら一歩一歩、進んでいく姿勢です。そして、たとえ一定の結果が出ても、必要であれば行く道を変える謙虚さを含むものです。

    今、地球規模の複雑な課題を前に、求められるのもこのステップ・バイ・ステップのアプローチです。国際関係であれ、核軍縮であれ、気候変動であれ、目標に到達するには、漸進的で常に評価を怠らないことこそが、ときに遅々とした歩みのように見えても、唯一の道なのです。


    魂の独立の意義

    ――今月28日は、創価学会が宗門から「魂の独立」を果たして30周年です。衣の権威を振りかざし、「法主信仰」などの邪義を唱えて腐敗・堕落した宗門は、池田先生との師弟を根本に大発展する学会に嫉妬し、1991年、学会を一方的に破門しました。この日は学会にとって、宗門の閉鎖的な権威主義から解き放たれた「魂の独立記念日」であり、世界宗教へと飛翔していく転機となりました。
      
    池田会長と対談し、また会長の著作を読む中で、私もその歴史を学ばせていただきました。宗門から離れたのは、創価学会にとって大変に喜ばしいことだと思います。権威主義は、矛盾を抱え、破滅するのが避けられない宿命ですから。

    当時は大変なご苦労があったと思いますが、その後の学会の飛躍的な発展を見れば、心から歓迎すべき出来事であったといえます。
     
    これまで多くの宗教と触れ合ってきた経験から、私は、世界に広がる普遍的な宗教とは、人々の多様性を祝福できる宗教であると考えます。“この道が唯一の道である”と断じてしまえば、他者に対して不寛容となってしまう。そうではなく、誰に対しても平等に、尊厳ある存在として敬い、接していくのが世界宗教の要件ではないでしょうか。
     
    世界宗教においては、誰もが「幸福」という共通の願いを持ちながら、その実現に至る道は多様性に彩られています。それは権威主義とは正反対の世界です。

    創価学会がその権威主義から解き放たれ、新しい旅路を開始してから30周年の節目に、祝福を申し上げます。学会が世界宗教としてさらに発展することを念願するとともに、世界中の会員の皆さんの幸福を心より願っております。

     <プロフィル>
    ベッド・ナンダ アメリカ・デンバー大学教授(元副学長)、世界法律家協会名誉会長(元会長)。1934年、インド・グジランワラ(現パキスタン)で生まれ、12歳の時、インド・パキスタンの分離独立の混乱の中で故郷を追われ、インドに移る。同国デリー大学やアメリカのエール大学などで学ぶ。世界的な国際法学者として活躍し、国際刑事裁判所設立プロジェクトの顧問を務めたほか、核兵器の使用や威嚇の違法性の是非を問う「世界法廷プロジェクト」等を推進した。2005年、池田先生と対談集『インドの精神』(東洋哲学研究所)を発刊。15年には同書の英語版が出版された。

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