創価大学での烈々たる気迫で語り掛けた講演「歴史と人物を考察――迫害と人生」

 

創価大学での記念講演 「迫害と人生」40周年

  • 本格的な反転攻勢へ「未来への勝利宣言」

本年は創価大学の創立50周年。この半世紀の間、創立者の池田大作先生は、入学式や卒業式で祝辞を贈り、1973年の「スコラ哲学と現代文明」、2003年の「人間ゲーテを語る」など、折に触れて講演や特別文化講座を行ってきた。
その中で、先生が「深く思い出に残る一つ」と振り返る講演がある。

40年前の1981年10月31日、第11回創大祭の開幕を記念して、烈々たる気迫で語り掛けた講演「歴史と人物を考察――迫害と人生」である。

3日前の決定

創大祭の準備に奔走する学生たちに、講演の開催が正式に知らされたのは、わずか3日前の10月28日だった。同時に、講演のタイトルも伝えられた。

 「迫害と人生」――。

当時の学生自治会のリーダーは述懐する。「池田先生ご自身のことを話されると直感しました。並々ならぬご決意、時代が動きだす雰囲気を感じました」

第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、2年半前の79年4月24日、先生は創価学会の第3代会長を辞任。“会員の前で指導してはいけない”“聖教新聞に出てはいけない”等と宗門に行動を制限されていた。一方、一部マスコミは、売らんがための捏造・中傷記事を流し続けていた。

そうした中でも先生は、入学式や卒業式、滝山祭や創大祭等に駆け付け、学生の中に飛び込んで激励を続けた。

学生たちは今こそ、先生の期待に応えて、学び鍛え、成長しようと誓いを深めた。

81年4月2日の開学10周年には、『創立者の語らい』を刊行。

学生は、こうした先生の発言・スピーチの編さん・学習に取り組みつつ、創立者による新たな指標を待望していた。

前年の創大祭でも学生たちは、先生に講演を要請している。実現には至らなかったが、それでも「何としてもお話ししていただける機会を」と諦めない。「どうすれば講演していただけるか」を日夜、語り合った。

そんな学生の一途な心を全身で受け止め、講演の実現に誰よりも奔走し続けてくれたのが、当時、創大職員の池田城久氏だった。

81年の夏、学生は再び講演を要望した。その強い思いに、先生は講演を決断する。「私のことはいい。どんなことにも耐え得る。しかし、創立者を案じて心を痛める学生諸君を、励まさずにはおれなかった」

10月28日に講演開催が正式に伝えられると、準備は急ピッチで進んだ。

当初、会場には300人ほどが入る教室を予定していたが、少しでも多くの学生に聴講してもらおうと中央体育館に変更した。

先生の会長辞任直後の79年5月3日、創価学会の本部総会が開かれた場所である。それは歓声も拍手もない、何かに怯えたような、形式的な会合だった。


“本当の話をするよ”

迎えた10月31日。講演の舞台となる、創大祭のオープニングセレモニーは午前11時に始まった。

“あくまで学生を中心としてほしい”との先生の意向に沿って、アリーナ席も、壇上の椅子席も、ほとんど学生で埋め尽くされた。
講演直前、先生から学生の代表に「本当の話をするからね」との伝言が届く。

式典の途中、先生が壇上に入場。ある学生は、先生の持つ原稿に、真っ赤な直しが入っているのを目撃している。直前まで、筆を入れていたのだ。

スピーチする池田先生。46分の講演中、会場はしわぶき一つなかった

巨大な障害が自らを鍛える

先生は冒頭、固唾をのむ聴衆の気持ちをほぐすように「芝生の上で秋の日射しをうけながら、五、六人の学生と語り合うような気持ちで思い付くままに語らせていただきます」と話し掛ける。
そして、こう言葉を続けた。
  
私は、十代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」との格言が胸に迫り、大好きでありました。言うなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたとも言えるかもしれません。

長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自らが逞しく光り鍛えられていくことを、忘れてはならないと思います。

迫害の構図

そして、作家ツヴァイクの言葉を引きつつ、“苦難こそ、人間の人生や運命を、闇から暁へ、また混沌から秩序へ、破壊から建設へと飛躍させる回転軸”であると述べ、古今東西の偉人の人生をひもときながら、正義と真実の人が虐げられる「迫害の構図」を明確にしていった。

日本では菅原道真。藤原氏の
讒言で左遷されたが、その悲劇のゆえに、学識と文才は不滅の光を放っている。


2人目は『万葉集』を代表する歌人・柿本人麻呂。流罪に遭い、刑死したとの説がある。

脱藩の罰で幽閉中に名著『日本外史』を書いた、江戸期の漢学者・頼山陽。

幕末の吉田松陰は30歳を前に殉難したが、門下の志士たちが維新の夜明けを開いた。

中国では、戦国時代の楚の詩人・屈原を挙げた。妬まれ失脚してなお、君主と国を思い、血涙を流して圧巻の詩「離騒」を書いている。

宮刑の屈辱を忍びながら、中国最大の歴史書『史記』を完成させた前漢の司馬遷。

インドでは、弾圧に非暴力で抵抗し、祖国を独立に導いたマハトマ・ガンジーに言及した。

フランスでは、亡命期に『レ・ミゼラブル』等の傑作の数々を記した文豪・ユゴー。

教会と政治権力に抗して『エミール』『社会契約論』を著し、そのために逃亡生活を強いられた思想家・ルソー。

その一生をほとんど酷評と嘲笑の中で過ごした近代絵画の父・セザンヌ――。



「後世の歴史は事の真実を糾弾する」

先生は、こうした史実を通して、民衆の犠牲の上に君臨する権力者が、野望と保身と羨望から、民衆のリーダーを躍起になって排斥しようとする――これが「必然の理」であり、古今を通じて変わらぬ「迫害の構図」であると結論した。
そして最後に、こう真情を吐露する。
  
私も一仏法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながらこの“迫害の構図”に照らしてみれば、迫害こそむしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく糾弾していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます。

「宣言」から「行動」へ

先生は原稿にあった「審判」という言葉を敢えて「糾弾」と読み換えた。

講演会に参加した、ある学生が振り返る。
「審判を待つのではなく、糾弾するのだ、君たちの生き方で正義を示すのだと、託された思いがしました」

会場には、普通の大学祭に見られる、お祭りのような雰囲気はみじんもなかった。むしろ、張り詰めた空気に満ちていた。咳払いや物音一つしない。

46分の講演が終わると、中央体育館は、感動と誓いのこもった、嵐のような拍手に包まれた。講演を終えて控室に戻った先生の服は、汗でびっしょり濡れていたという。


不二の同窓よ! 永遠に私と一緒に

池田先生が、この講演に込めた決意は何であったか。

「未来に向けての勝利宣言を、愛する創大生と共に、とどめた」と、小説『新・人間革命』第30巻〈下〉の「勝ち鬨」の章にはつづられている。

先生は随筆に記した。「十一月には、私は東京と関西で『嗚呼黎明は近づけり』の歌の指揮を執り、四国では、青年と共に『紅の歌』で新時代の暁鐘を打ち鳴らした」。「宣言」の後に、本格的な反転攻勢の「行動」を開始したのである。

――講演から40年。丹木の丘のキャンパスは飛躍的に発展し、創価教育の学びやも、卒業生の活躍の舞台も世界に広がる。だが創立者と創大生の心の距離は変わらない。本年の創立50周年に寄せて池田先生は呼び掛けた。

「さあ、創価の学友よ! 不二の同窓よ! 貢献と勝利の人生を、威風も堂々と飾っていってくれ給え! 永遠に私と一緒に!」

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村


コメント

このブログの人気の投稿

『自分は信じている。ゆえに正しい』と言うのであれば、それは独善です。だから、学会は、牧口先生以来、徹底して宗教を研究してきた

当時の限界に倍する201世帯の弘教を果たすことができたのか。第一の理由は、出発に当たって明確な目的と目標を示した点にあろう。

国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)の基本理念は、「誰も置き去りにしない」。「人間」への温かなまなざしは、大乗仏教と深く共鳴している。

COVAXによるワクチン接種の地球的な規模での推進が、今後の国際社会のさらなる努力を通じて歴史に刻まれていく