創価学会の信仰活動は、社会の平和と安穏を目指す「広宣流布」と、自身を変革し向上していく「人間革命」の両輪
〈危機の時代を生きる〉 京都大学こころの未来研究センター 広井良典教授㊦
- 個人のたゆまぬ自己変革の挑戦から
- 対立超える「地球倫理」が生まれる
仏教などの普遍的な思想や宗教が花開いたのは、紀元前5世紀ごろ。人類は今、再び新たな思想を必要としている――京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授はそう語る。25日付の㊤に続き、これからの時代に求められる「地球倫理」の実相や、宗教の役割などについて聞いた。(聞き手=萩本秀樹、村上進)
――インタビューの前半では、人口と経済は「拡大・成長」「成熟」「定常化」というサイクルを3度繰り返し、いずれのサイクルでも、人間の内面の深化が定常化への移行の転機となることを語っていただきました。人類が「第3の定常化」の時代に入ろうとする今、必要とされる「地球倫理」とはどのようなものでしょうか。
気候変動などの問題が広く議論される今では、あえて「地球」を打ち出すこと自体に目新しさはないかと思います。しかし一つ確認したいのは、「第2の定常化」への移行期となった、紀元前5世紀ごろの諸思想が誕生した「枢軸時代」「精神革命」においては、私たちが現在使う「地球」という概念は、まだ存在していなかったということです。
その時代に重要な意味をもったのは「宇宙」という概念であり、“宇宙において人間はどういう存在か”といった問いに答えるべく、仏教や儒教、ギリシャ哲学、キリスト教やイスラムの原型である旧約思想が生まれました。ここでいう宇宙とは、森羅万象の全体や、秩序といった意味合いが強いものでした。
つまり、環境や資源が限られた地球という視点は、現代の新しい概念であり、これからの倫理観を考える上でのキーワードなのです。
地球倫理には、大きく三つの柱があります。一つ目は、「地球資源・環境の有限性を認識すること」であり、その重要性はこれまで述べてきた通りです(25日付)。
二つ目は、「風土の相違に由来する、文化や宗教の多様性を理解すること」です。
「枢軸時代」に誕生した多様な思想、宗教は、普遍性を持ちながら、実際には、その内容は互いに大きく異なっていました。その理由は、それぞれの世界観や自然観が、生まれた地域の環境や風土を色濃く反映していたからではないかというのが、私の見方です。
例えば、砂漠のような環境に住んでいる民族にとっては、いかに自然をコントロールするかということが関心となり、そこから、自然の上に立つ人間の、さらに上に立つ超越的な神が存在するという世界観が形成されやすかったといえます。実際に、砂漠地帯が広がる中東で、キリスト教やイスラムに展開していく旧約思想が生まれました。
あるいはアーリア人の一部は、中央アジア近辺からインド北西部、そしてガンジス川流域へと進む中で、豊かな森に出あいます。自然は人間に優しいものとして映り、自然や宇宙と一体化していく世界観を土台にして、仏教の源流をなす哲学が生まれました。
このように、同じ人間でありながら多様な思想や宗教が生まれる背景には、環境や風土の多様性がある。それが人間の豊かさでもあるわけです。それを認識するのが、地球倫理の2番目の柱です。
これは、普遍思想同士が対立する今日にあって、文化間の相互理解の道を開く姿勢でもあると思います。
三つ目の柱は、「それらの根底にある自然信仰を積極的に捉えること」です。
「自然信仰」とは、自然の中に内発的な力を見いだすことを指します。人間と自然を区別する機械論的な理解から離れ、人間の根底にある“生きている自然”を再発見、再評価するということです。
このような自然信仰は約5万年前、「第1の定常化」への移行期に起こった「心のビッグバン」と同時に生じたものであり、さまざまな宗教や信仰の根源にあるものです。しかし、続く「枢軸時代」「精神革命」によって生まれた一部の普遍思想や宗教においては、そうした自然観は忌避されるようになった部分もありました。とりわけ昨今の地球的問題を見れば、自然に対する人間の態度は見直しを迫られているのは明らかです。
その意味でも、人間が本来もっていた自然信仰に通じるような自然観を取り戻すのが、地球倫理の重要な側面であると思っています。
――地球倫理を実践する生き方とは、どのような生き方になるのでしょうか。
三つの柱である有限性・多様性・自然信仰を、きちんと意識して生きるということではないでしょうか。
最近の若い世代の行動を見ていると、地球倫理ともいえる行動を起こす人は多くいるように思えます。例えば、千葉大学で教えていた頃のある卒業生は、農業と再生可能エネルギーを組み合わせた事業を進めるための企業を設立しました。また、社会的課題の解決に向けた会社を立ち上げた別の卒業生は、自分がやりたいのは自己実現ではなく世界実現だと語っていました。
彼らのような若者の意識には、地球倫理に通じる点があります。地域に根差しながら地球のために行動する、いわば「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー」の生き方を体現する人たちが、多く出てきた実感があります。
そうした生き方を促していく上で、仏教のような世界宗教が果たす役割は大きいと、私は思います。仏教も、キリスト教も、時代の状況に応じて進化を重ね、その一方で、時代が変わっても変わらない根幹の部分があります。
枢軸時代、精神革命の時代に生まれた普遍宗教が現代的な形で進化していくと、それは限りなく地球倫理と重なるものになってくるのではないかと思います。創価学会に期待するのも、その点です。
特に日本の仏教は、自然信仰を重視してきた側面がありますし、地球倫理的な発想と親和性があると思います。
また、ユーラシア大陸の東端という辺境に位置する日本は、中国文明から大きな影響を受けながらも、一定の距離を保ち、一方で、アジアの中でいち早く近代文明を導入していきました。新しい思想は周縁から生じてきた側面がありますし、日本人は世界中のいろいろな思想を俯瞰する視点を持ちやすいといえます。
――歴史を紐解けば、地球倫理の“対極”といえるような紛争や対立、支配が繰り返されてきました。近著『無と意識の人類史』では、共生することの本質について述べられています。
バクテリアのように、単純な細胞からなる「原核生物」に対して、人間を含む「真核生物」は、原核生物と原核生物が融合し、ある種の共生を行って誕生した、複雑さをもつ生物だといえます。
このことから、生命はある意味で「共生」を志向するといえますが、一方で、人間が無数の争いや対立を引き起こしてきたことも事実です。これを踏まえると、生命の原理は共生のみであるということは、やや単純化した議論になってしまいます。
そこで私は、人間を含む生命について、「共生」と「個体化」という異なる二つのベクトルをもつ存在であると考えています。
生命の起点をなす原核細胞が共生して、真核生物の基本単位である真核細胞が生まれました。そこから生命はさらに進化を遂げ、複雑性を増しながら、「多細胞個体」といった多様な形態をとっていきます。これは、他の存在から独立するといった、共生とは異なる「個体化」のベクトルが働いたことを意味します。
つまり、原核細胞の後に真核細胞が生まれ(共生)、その後に多細胞個体が登場した(個体化)。このサイクルを表した図では、膨らんだ部分が共生の方向を、細くなっている部分が個体化の方向を意味しています。
図の中で、多細胞個体の登場以降、今度はその個体同士が、再び共生・協調のベクトルを強めて誕生したのが「コミュニティー」です。
それ以降の展開は、人間固有の歴史として説明することができます。狩猟採集社会では「個体」、農耕社会では「コミュニティー」ないし共同体が軸となり、近代社会は、再び「個人」が軸となる社会であることを示しています。
そしてこれからは、個人を超えてコミュニティーや自然とつながる必要があるという意味で、近代社会の上に「個人を超える次元」を配置しています。
――宗教はまさに、そうした自己超越を一つの目標としているといえます。創価学会の信仰活動は、社会の平和と安穏を目指し連帯していく「広宣流布」と、自身を限りなく変革し向上していく「人間革命」を両輪としています。広井教授が言われる「共生と個体化」のイメージと重なる点もあるかと思います。
そう思います。私が強調しているのは、共生と個体化のどちらも重要であるということです。一般的に、「共生」という言葉のほうがプラスのイメージがあり、個人主義的なものはネガティブに捉えるような向きもありますが、本来的には「個体化」が悪いということではないのです。
また一方で、気を付けたいのは、共生というのはどうしても、共生する集団内部の連帯は重視するけれども、外部に対しては閉鎖的、敵対的になる可能性があります。私はこれを、「共生のパラドックス」と呼んでいます。
共同体の倫理が強くなればなるほど、閉鎖的になりがちな集団を、外部へと開いていくベクトルが必要になる。そこで大切になるのが、個々人が自分を超える存在――自然や地球、普遍的な思想とつながり、自己変革していくこと、つまり「個体化」です。
「共生」に潜む排他性や敵対性を克服するために、個人が確固とした思想や精神性に立つ――押さえるべき大切な視点であると思います。
かつての精神革命は、まさに個人の内的な原理を打ち立てたものであったといえます。そして今、「第3の定常化」への移行期に求められる地球倫理もまた、個人のたゆみなき自己変革から生まれるものであると私は思います。
2021年9月26日

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