神秘的な悟りとか仏というものは、真の仏法ではまったくない
「仏界」とは苦悩の現実を照てらす太陽
この節では、十界、十界互具という仏法の生命論の基本を簡潔に説明するとともに、万人が仏界という尊極の生命を顕す現実的な方途を、御本尊に対する信心修行として確立したのが、日蓮大聖人の仏法であることを示します。
【池田SGI会長の指針】 『生命と仏法を語る』から
瞬間、瞬間に流れゆく生命には、大きくみると十種の範疇がある。これを仏法は「十界」ととらえた。
具体的に言えば、われわれの生命は「六道」、つまり地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界」という境界がある。
そして、「四聖」「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」という、より高次元の境界がある。この範噂を、厳としてもっているのが生命の実相である。
瞬間にあらわれる十界のいずれかの生命は、固定されるものではない。次の瞬間にはまた、十界のいずれかを顕現しゆく。この生命のダイナミズムを、仏法の直観智)が見事にとらえた法理が「十界互具」である。
「観心本尊抄」には、人界所具の九界の姿について、まことに簡潔、明瞭に述べられている。
「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋或時は平に或時は貪り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は詭曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癖(おろか)は畜生・詭曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御書241ページ)と。
これらが、それぞれ顕現したり、冥伏したりする。 これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できる。
ここで重要なことは、仏法の探究の眼は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命を、いかにして顕現しゆくか、というところにあった。
本来仏道修行と、いうものは、この「仏界」を涌現するためになくてはならない。日蓮大聖人の大仏法は、この一点に凝結され、正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示している。
ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのである。
これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。「地獄」の「地」とは、最低のものに縛られるという意味である。いかなる時代になろうと、この「縛(ばく)」を切り、人間自身が上昇していくことを最も基本に考えねば、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。
仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ「仏界」という人間生命の最極なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
六道に翻弄されている私どもの一念が、正しき本尊に南無し、境智冥合しゆくことにより、「仏界」という無限の生命力を発動する。
言葉で表現するのはむずかしい。
「仏界」というのは、他の九界のような具体的なものではない。九界を無限の価値の方向へと動かしゆく本源的な生命の働きである。
曇天の日がつづいても、雨の日でも、ジェット機が高度1万メートルに達すれば、煌々と太陽が輝き、安定した飛行ができる。と同じく、現実の生活が、いかに苦衷にあっても、苦難の連続であっても、この胸中の太陽を満々と輝かせていけば、悠々と乗り越えていける。この太陽を、たとえて言うならば、「仏界」といえるかもしれない。
ひとつの次元から、「御義口伝」には、「菩薩とは仏果を得る下地なり」(御書738ページ)とおっしゃっておられる。法のため、人のため、社会のために行動することが菩薩である。
その菩薩という行動の土台なくしては仏果は得られない。観念では仏果は得られない。万巻の仏教の書を読んでも得ることはできない。
仏果を得たといっても、なんら姿が変わるものでもない。
六道九界の現実社会のなかで、そのままの姿で生きぬいていくのである。神秘的な悟りとか仏というものは、真の仏法ではまったくない。
人間として大事なことは、低き境涯から、より高き境涯へ……。さらに、狭小な境涯から、無限の広がりの境涯へと進み、広がりゆくことである。その最極の一点の境涯が、「仏界」となるわけである。
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