煩悩は、生命が本来もっている根源的な本体から発現してくるものであり、なくすことはできない

 

【創造する希望――池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ】第12回㊦ アメリカ カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」

  • 〈1974年4月1日〉

米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で池田先生は、1時間15分にわたって講演を行った。最初から最後まで、手を休めることなく熱心にメモをとり続ける学生が目立った(1974年4月1日)

海外の大学・学術機関で行われてきた池田先生の講演を掲載する連載「創造する希望」。今回は、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の講演「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」(1974年4月1日)㊦である。
 
掲載範囲のポイント

●「無常」の現実の奥に常住不変の法が
●「魔性の欲望」に負けず「人間自立の道」を
●今日の課題は一人一人の精神的跳躍
 

「小我」を乗り越え「大我」に生きよ!

仏教の真髄は、煩悩を断ち、執着を離れることを説いたものでは決してない。無常を悟って、諦めを説いた消極的、虚無的なものでなく、煩悩や執着の生命の働きを生みだす究極的な生命の本体や、無常の現実の奥にあり、それらを統合、律動させている常住不変の法のあることを教えたのが、仏法の真髄なのであります。

すなわち、無常の現象に目を奪われ、煩悩に責められているのは「小我」にとらわれているのであり、その奥にある普遍的真理を悟り、そのうえに立って無常の現象を包み込んでいく生き方こそ「大我」に生きるといえましょう。
 
この「大我」とは、宇宙の根本的な原理であり、またそれは同時に、私達の生命の様々な動きを発現させていく、根本的な本体をとらえた「法」であります。
 
トインビー博士は、この本体を哲学的用語で「宇宙の究極の精神的実在」と呼ばれておりましたが、それを人格的なものとしてとらえるより、仏教のごとく「法」としてとらえるのが正しいと思うと言っておられました。
 
この「小我」でなく「大我」に生きるということは、決して「小我」を捨てるということではない。むしろ「大我」があって「小我」が生かされるということなのであります。
 
文明の発達というのは、人々に執着があり、煩悩があるからこそあるともいえます。もし富への執着がなければ経済の発達はないし、厳しい冬を克服していこうという意志がなければ、自然科学の発達もない。恋人を愛するという煩悩がなければ、文学の重要な部分は発達しなかったでありましょう。(笑い)
 
仏教の一部では初期においても、煩悩をなくそうという考えはあり、そのために、肉体をも焼き尽くす試みさえ行われた。しかし、煩悩というものは、生命が本来もっている根源的な本体から発現してくるものであり、なくすことはできない。というより、行動の原動力でさえあります。

ゆえに、この煩悩にとらわれた「小我」を正しく方向づけすることが、不可欠であります。
 
真実の仏教は今、その根本の「大我」を発見した。「小我」をなくそうとするのではなく、逆に「小我」にとらわれるのでもない。「小我」をコントロールし、方向づける「大我」のうえに立ってこそ、文明は正しい発達を遂げると言いたいのであります。(大拍手)
 
したがって、仏教が無常を説き、死を見つめることを教えたのは、逆に常住不変の法の実在することを教えるためであったわけであります。

つまり仏とは諦めを教える人ではなく、常住の法を悟った人をいうのであります。死を恐れずに見つめ、無常を明らかに悟ったのは、その奥に常住不変の法があり、我が生命もその法則のうえに立って運動する尊き存在であることを、知っていたからこそであるといえましょう。
 
死は私達の肉体を、必ず包み込む。それは、避けることができない。しかし、それを超えて、永遠に生起し、展転しゆく不滅の生命に裏付けられていることを仏法は教えている。その絶対の確信のうえに立って、死を、無常を見つめることを指し示したのであります。 


仏法では「生死不二」と説きます。生も死も、永久不変に流れゆく生命の二つの顕れ方であって、どちらかに他方が従属するものではない。

時間、空間の認識の枠を超えた「空」の次元でこそ、この生死をつかさどる永遠の究極的生命がとらえられるといってよい。トインビー博士と、その永遠性の問題は繰り返し論議いたしましたが、博士も「究極の精神的実在」は、仏法で説く「空」の状態でしかとらえられないと言っておられました。
 
この「空」ということを、短い時間で説明し切ることは困難ですが、一般に考えられている「無」ということでは絶対にありません。「有」や「無」は時間、空間という私達の通常の認識尺度で判別しうるものでありますが、「空」はその奥にある本源の世界を問題にしているわけであります。
 
私達は、生まれて成人に達するまで、肉体的には大変化を行っている。幼い時の肉体とは、別人のごとくであるといってもよい。これからの人生の長い道程にあっても、数知れない変化を行っていくでありましょう。

精神的にも大きな変化がみられるのは当然であります。しかし、その中に一貫して変わらぬ自分というものがある。それは単に記憶の問題にとどまらず、一個の生ある個体としての、本源的な「我」の問題であります。
 
この本源的な「我」は、肉体や精神のうえに顕れてきているけれども、そのもの自体を認識することは困難であります。肉体や精神をつかさどり「有」や「無」の世界の奥にある本体であると言わざるを得ない。
 
仏法はこの本源的な「我」が、宇宙大の生命に通じていると説くのであります。更に、この「我」は、永遠に不滅の働きをなし、ある時は「生」に、ある時は「死」の姿をとる。

これが生死不二という考え方であります。私達は、その「大我」を、我が生命の内に持っている。そして宇宙生命とともに呼吸しながら、無常の世の中に生きていくのであります。
 


翻って、現代文明をみるとき、私達の文明はまさしくこの「小我」に翻弄され、それを最大限に暴れさせた文明であったことは悲しい。人間の欲の権化が環境を汚染し、石油資源を掘り尽くして、巨大な科学技術文明を作りだした。巨大なビル、高速の交通機関、様々な人工食料、そして最も忌まわしい兵器――それらのすべてが、人間の執着、煩悩の象徴であります。

 
それらのなすがままにまかせ、人間を従属させていくならば、必ずや人類を自滅に陥れるに違いありません。
 
世界的な思潮として、今、現代文明の暴走への反省から、「人間」に目を向けるようになってきたのは、ようやく人間が人間であろうとしている兆しでもあるといえましょう。
 
欲望に支配され、無常の現象の世界ばかり追い回すのであれば、そこにいかに知性が発揮されているといっても、本源的には、本能に生きる動物と変わるところがない。現象の奥にある、目には見えぬ実在に目を向けてこそ、人間は人間たる価値を顕すのではないでしょうか。(拍手)
 
トインビー博士は、自らのエゴにとらわれた欲望を「魔性の欲望」と認識され、それに対し「大我」に融合する欲望を「愛に向かう欲望」と名づけられました。そして「魔性の欲望」をコントロールするためには、人間一人一人が内なる自己を見つめ、制御することが必要不可欠であると、二十一世紀への警鐘として述べられたのであります。
 
来たるべき二十一世紀の文明は「小我」に支配されてきた文明を打ち破り、「大我」を踏まえ、無常の奥にある常住の実在をつかんだうえに立っての円満な発達が要請されるべきであります。

それでこそ、初めて人間は、自らが人間として自立し、文明は人間の文明になるのであります。そのような意味から、私は、二十一世紀を「生命の世紀」でなければならないと訴える次第であります。(大拍手) 


 
私達の人生は、また宇宙のあらゆる現象は車輪が回るごとく、展転きわまりないものであります。しかし、煩悩、欲望の泥沼の上をあえぎながら走るか、確固とした「大我」を悟った生命の大地の上を走りゆくかによって、その回転は変わってくる。その時、初めて文明は確かな足どりをもって動き始めるといえましょう。
 
二十一世紀が夢に見た人間謳歌の文明になるかどうかは、一にかかって、人間そのものに目を向け、常住不変、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっている。そして今は、まさにその分岐点であることを、本日、私は皆さんに訴えたいのであります。
 
二十世紀後期から二十一世紀にかけての現代は、まさしく人間が真に人間となるか否かの転換期であると、私は考える。
 
これまでは、極論かもしれませんが、人間は知性を持った動物の域を出なかった。私の信奉する七百年前の日蓮大聖人の教典の中に「才能ある畜生」(御書215ページ)という表現がありますが、現代において、この言葉の持つ意味が極めて明確になりつつあります。人間は知性的に人間であるだけではなく、精神的、更に生命的にも、人間として跳躍を遂げなければならないと信ずるものであります。
 
その課題は、今日の誰人にも課せられております。

まず、自ら人間としての自立の道を模索すべきだと思います。私は仏法によって、その「生命の旅」を開始いたしました。皆さんも、一人一人が未曾有の転換期に立つ若き建設者、開拓者として、それぞれの「人間自立の道」を考えていただきたい。

私は本日、そのための参考として仏法の英知の一端をお話しいたしました。この講演が、皆さん一人一人にとって何らかの指標となれば幸いであります。(大拍手)

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