当時の限界に倍する201世帯の弘教を果たすことができたのか。第一の理由は、出発に当たって明確な目的と目標を示した点にあろう。
〈青年・飛躍の源流――二月闘争70周年〉第1回 明確な目的と目標 70年前の2月、蒲田支部を舞台にした「二月闘争」で24歳の池田大作先生は、当時の限界を打ち破る「支部201世帯」の弘教を成し遂げ、恩師・戸田城聖先生の願業「75万世帯」へ、飛躍の突破口を開いた。まさに「青年・飛躍」の源流にほかならない。5回にわたり、若き先生の戦いに、広布拡大の要諦を学ぶ。 二月闘争の舞台となった東京・大田での本部幹部会で、学会歌の指揮を執る池田先生 東京・大田区鵜の木3丁目。多摩川の流れに程近い、閑静な住宅街の一角に、その建物はあった。今、同じ場所には、建て替えられた2階建ての集会所が立っている。 1952年(昭和27年)1月29日、ここで蒲田支部の緊急組長会が開かれた。 24歳の若き池田支部幹事は、青年らしく訴えた。 “2月は日蓮大聖人の御聖誕の月であり、2月11日は戸田先生の誕生の日です。私たちがこの信心に巡り合えたのは、戸田先生が広布に一人立たれたおかげです。報恩感謝の思いで、この2月を戦い切り、先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか” 「わが初陣」。池田先生がそう振り返る「二月闘争」の火ぶたは切られた。戸田先生の経営する会社に入社し、影が身に添うごとく仕えて3年。ここから、192カ国・地域へと広がる世界広布の指揮は始まったのである。 二月闘争から9カ月前の51年(同26年)5月3日。戸田先生は第2代会長の就任式で宣言した。 「私が生きている間に、75万世帯の折伏は、私の手でいたします」 「達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい!」 参加した同志は、決意に身震いしたものの、現実の目標として受け止めた者は、ほとんどいなかった。中には“7万5千の間違いでは”と耳を疑う人、“戸田先生は長生きされるのだろう”と考える人もいた。当時の会員数は実質、約3千人である。 それでも戸田先生は、広宣流布の未来を見据え、矢継ぎ早に手を打っていった。 会長就任直前の4月には、当時の二十数支部を、蒲田支部を含む12支部に再編。同月20日に聖教新聞を創刊する。 5月には、広宣流布の「金剛不壊の大車軸」として、創価学会常住の御本尊を発願。 6月に婦人部、7月に男子部、女子部を結成。同月22日の臨時総会で、創価学会版の...